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正心調息法
WEB講座


前段の説明

■腹式呼吸
■丹田の位置
■鼻呼吸
■姿勢
 ●座り方
 ●上体の構え
 ●鈴の印
■お尻すぼめ
 (肛門を締める)



正心三原則

■全てに前向き
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■愚痴を言わない


調息法

■呼吸のステップ
■想念
■内観

■実修回数
■想念・内観の件数
■実修回数の数え方

集束放射
百事如意



大断言


正心調息法説明図pdf
(青山講習会資料)
正心調息法WEB講座/調息法(呼吸法)
集束放射 百事如意
集束放射
集束放射の意味の一つについては、吸息時の内観のところでも触れています。つまりは、取り込んだ宇宙無限力をいったん丹田に収めて、それを全身に放射するように内観(イメージ)するというのが一つです。
もう一つは、自分の思い、願いに対する集束放射です。
紙をお日様にかざしても燃え上がることはありません。しかしレンズを持ってきて紙の上に焦点を結ばせると燃え上がります。それが黒い紙であったならもっと早く燃え始めるということは、皆さん、ご存知のことです。

これに正心調息法の要素を対応させてみると、太陽は宇宙無限力、レンズは呼吸、紙は思いとか願い事に当たります。そしてその紙を真っ黒に塗る行為が想念・内観ということになります。博士はこれを「心の墨塗り」と表現されています。
つまりは、宇宙無限力を呼吸というレンズを通して焦点を自分の願望一点に絞り、さらに想念・内観をもその一点に集中させて、実現することを信じきって放射する。それが集束放射のもう一つの意味ということになります。
■百事如意
百事如意の意味は「百事、意の如し」。「百事」というのは全てのこと、という意味ですから、正心調息法を実践すれば何事も思いのまま、全て実現しますよ、ということになります。

実際、正心調息法を実践したことで劇的な効果を体験する方も多くおられます。その反面、一生懸命やっているけれどちっとも効果が現れないという方がおられるのも事実です。

以前は「正心調息法と大断言」HPの掲示板にも、そのような書き込みがあり、やり方が悪いのだろうかという質問も受けたことがあります。上手く出来ているのかどうかを、他人がチェックするのはかなり難しいことです。講習会などでも、とくに吸息の時に上体が動いている場合には直ぐ指摘できますが、その他のところや、さらに想念・内観が上手く出来ているかどうかは外側からでは判断は不可能です。
基本的には疑念を持たずにプラシーボ反応を起こせるほど「思い込む」必要がある事は、ご理解いただけると思います。ですがそれをあまり言い過ぎると「効果を信じきれないあなたが悪い」というような押し付けに陥ってしまいがちです。

あるときいろんな人からの奨めで、中村天風師の本を読んでみました。読んでみて驚いたのは、言葉こそ違え、中村天風師の言われていることと、塩谷博士が言われていることがほとんど同じだということです。そこでふと気付いたのは、お二人の言われていることがほとんど同じであるとしたら、逆立ちさせて考えた方がいいのではないかということです。

なにを逆立ちさせるのかというと、例えば塩谷博士は「正心調息法を実践すれば百事如意」と言うけれど、人間自体が本来百事如意と考えた方が理解しやすいのではないかということです。人間が本来もっていた能力が文明の進展によってどんどん失われている。それを取り戻す、あるいは思い出す一番の近道が、塩谷博士なら「正心調息法」であり、中村天風師であるなら「心身統一法」であると考えた方がいいのではないか。そう思えてきました。
塩谷博士に「百事如意」について以前お聞きした時も、「人間がそのままで空を飛ぶとか海の上を歩くとかは人間の本来の機能ではないからできはしない、つまり自然の理ではないから不要な機能である。ても、その他のことは全てできるんだよ」と言われていたのを思い出します。

人間の持つ不思議な能力
実際、人間は妙なことが出来ます。
「雲消し遊び」というのをご存知でしょうか。八本足の蜘蛛ではなく、空に浮かぶ雲についての話です。地上にいる人間が空に浮かぶ雲を消せるのです。私が出来たのですから、皆さんも出来るはずです。

初めは本で知りました。あまり大きなものは選ばない方がいいですが、その本にある通り、雲の縁をなぞるように見つめながら、心の中で「雲は消えました」と過去形で、続いて「ありがとうございました」と念ずることを繰り返します。すると面白いように雲は消えていきます。

青空に雲を作ることもできるそうです。これは目標物がないせいか、私には出来ませんでした。でも、沖縄での講習会に参加してくれた小学校高学年の女の子に聞いてみたら、雲は勿論消せたし、「雲を作れた?」って聞いたら「空に字を書いた」って言ってました。やはり子どもの方が純粋な分だけやりやすいのかも知れませんね。

人間が雲を消したり作ったりできるとしたら、いったい何ができるのでしょう。
それは、もしかしたら天候に影響を与えることが出来るのかも知れないということになります。つまりは雨乞いだとか、反対に雨を止ませるとかいうことです。人間が自然界に無用な影響を与えるのがいいか悪いかという問題もありますし、もっと純粋でなければとか、なんらかのパワーがもっと強大でなければ、というような条件は付くのかも知れませんが、可能性はあるということになります。今でも沖縄の西表島等には雨乞いが得意な巫女さんが現存されていて、頼まれてあちこちに出かけていっているようです。

2004年(H16年)末のインド洋大津波。いよいよカタストロフィーかと思わせるような大災害で、各国で非常に多くの犠牲者を出しました。スリランカでも大きな被害が出ましたが、そこに住む野生のアジア象は一匹も死ななかったそうです。NHKの「地球・ふしぎ大自然~アジアゾウ・人に聞こえない脅威の声」(2005年11月7日放送)という番組でも取り上げていましたが、象たちは津波が到着する1時間前から内陸へ避難を始めたそうです。象たちは日頃から人間の耳には聞こえない20Hz以下の低周波でも会話しており、津波自体から発せられ、速度は津波よりも速く伝わってくる低周波を捉えていたのだろうということでした。

震源地の直ぐ北にやはり地震と大津波で大被害を受けたインド領のアンダマン諸島があります。その島の一つには、いまだに原始的な生活を送っている部族がいて、他の人間が上陸しようとすると武器で威嚇するそうです。その島には現代人が病気等を持ち込まないようにするため、上陸が禁止されているとのことですが、そこの住民にも死者は一人も出なかったとのこと。彼らがまだ低周波を聞き取る能力を持っているのか、その他の能力または知識で災害を避けられたのかはわかりません。本来は人間自身にも危機を察する能力は備わっているのではないか。そのことの状況証拠にはなるのではないでしょうか。

退化する能力
人間の持つ能力というのは、その必要性がなくなるとどんどん退化するようです。

2005年(H17年)末には「マサイ」という映画が公開されました。アフリカの先住民であるマサイ族の人たちに演じてもらった映画で、結局見られませんでしたが、ドキュメンタリーではないようです。それに主演したマサイ族の若者二人が公開に先駆けて宣伝のため来日しました。その二人の視力が話題になっていましたが、なんと「8.0」だそうです。それがおそらく狩猟民である彼らの生活のために必要な視力なのでしょう。

全く別な本で読みましたが、そんな彼らを都会に連れてきて生活させると、半年も経つと遠目は利かなくなってしまうそうです。都会というのは、遠くを見る必然性を奪ってしまうのではないでしょうか。

歩く能力もそうです。例えば、江戸時代に旅をする人たちは1日にどれくらいの距離を歩いたかご存知でしょうか。
男性で40km、女性で30km程だったとのことです。旅ですから、当然、何日か続けてその距離を歩くわけです。皆さん、今の自分に照らしてみて、まずは1日に30~40km歩くということは如何でしょう、簡単なことでしょうか。ましてやそれを何日も続けてとなったらいかがでしょう。

最近よく言われていることの一つに、農家の人たちより都会の人たちのほうがまだ歩いているという話があります。交通機関が発達している都会の人たちは、それでも駅までとか乗換えで歩く機会は多い。ところが農家の方たちの自家用車保有は、もう一家に1台どころではなく、一人に1台というのが現状で、歩く機会は非常に限られるようになってきています。

また、苦笑い気味に言われるのは、エコロジーな生活を求めて都会を離れた人の話。もともと所有していた人もいるでしょうけれど、木々に囲まれた新しい住処で最初にすることは自家用車の購入だという皮肉。完全自給自足でもない限りは、生活物資を調達する必要がありますが、それができる店などが、現代人が歩いて行けると思う範囲にないわけです。

前述のマサイ族の人たちは、今でも日常生活の中で1日に40km程を歩いているそうです。
小説ではありますが、幕末を題材にした岡本綺堂の「半七捕り物帳」などを読んでも、神田三河町に住む半七親分の行動範囲は、現代の我々がイメージする「歩く」からするとかなり広いものです。決して「超人」として描かれているわけではありませんから、歩くことしか手段がない時代には普通のことであったわけです。電車が走り、自動車が走り、飛行機が飛ぶ現代は、ある意味「歩くこと」から疎外されている時代なのかも知れません。

可能性は無限大
ほぼ自主上映会でしか見ることのできないドキュメンタリー映画に「地球交響曲」シリーズ(龍村仁監督作品)があります。ジェームズ・ラブロック博士の「地球は一つの生命体である」というガイア理論をベースにしたもので、2006年7月現在「第5番」まで公開されています。

その「第1番」は想像を絶するトマトの巨木が縦糸のストーリーになっています。1985年に開催されたつくば万博の日本政府館でご覧になった方もおられるかも知れません。その圧倒的な生命力は見るものの心を震わせます。それは土を使わないハイポニカ農法(水気耕栽培)で栽培されたトマトの巨木なのですが、これまでで最も大きく育ったものは、10m四方にその枝を拡げ、生涯で15,000個もの実を着けたそうです。

それではそれがこの栽培方法でのトマトの限界なのかというと、どうもそうとも言えないという話があります。同農法の開発者である野澤重雄氏は「非自然」と表現されていますが、このトマトの巨木は地球環境上での自然ではありません。地球環境上での自然であるなら、土に根を張り、それによって自分で支えられる範囲の幹を立て、枝を張り、葉を広げて実を作ります。
流石にこのトマトの巨木ではそれができませんから、ぶどう棚のようにパイプを組み、その上に枝を這わせます。また、急激な温度変化、湿度変化も避けますので、基本的には温室での栽培になります。すると、どうもその温室の大きさを植物が自分で判断して成長を止めてしまうようだというのです。人間の方がコストを度外視して、途轍もなく大きな温室を造ることが出来るのなら、トマトはもっともっと巨大な生命力を見せてくれるのかも知れません。

普通のたった一つのトマトの種の中に、これだけの無限大ともいえる生命力が秘められています。
もともと1種類であったかは分かりませんし、もともと動物系と植物系は違っていたかも知れませんが、いずれにしろ生命は単細胞から出発したといわれています。それが35億年の時間をかけて、極めて多様な生態系を地球は創造してきました。
同じ単細胞から出発したにもかかわらず、植物には無限の可能性があるのに、動物にはそれがないということが考えられるでしょうか。人間が巨大化するかどうかは分かりませんし、もしかしたら人間の想像力が無限ということなのかも知れません。
やはり私には、人間の能力も無限大であると考える方が自然なように思えます。トマトの巨木は、それを私たちに教えてくれているのではないでしょうか。

余談ですが・・・

トマトの巨木が呼吸法に関係するかもしれないという話をして見ます。

トマトの巨木は現実にその姿を何度も繰り返して見せてくれていますけれど、科学的にはなぜそんなに大きく育つのかということについては、まだ解明されていません。映画「地球交響曲第5番」で、ジェームズ・ラブロック博士は実際にトマトの巨木を眼にして、「科学的な説明はできないけれども、まず私はこの事実を受け入れる。説明は後からついてくる。」と言われています。

ただ、これまでの研究で一つだけわかってきたことがあるそうです。
それは、この写真で見るように栽培槽の中にまるで絨毯のように根っこが密生します。この写真に見えるような根っこは、みんな水分とか養分を運ぶ「輸送管」に当たるわけですが、その先端には無数の毛根が生えていて、そこから水分、養分を取り込んでいます。その毛根にいかに満遍なく酸素を行き渡らせて活性化するかが、トマトがこれほどの生命力を現出させる一つの要因であると分かってきたとのこと。

塩谷博士は、深い呼吸をして最大限に酸素を取り込み、全身の細胞に酸素を行き渡らせることが大切と言われていますが、まさにそれと同じことをトマトも教えてくれているのかもしれません。
集束放射   ■百事如意
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